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私が最近考えているのは「」とはリズムではないかということです。

」はウンウン力んでみても出てきません。
身体がまとまって淀みなくなった時に出てきます。

やるがあればいくらやっても疲れません。やるがなければ直ぐ疲れます。
でもやるは出そうと思っても出てきません。
何故か知らないけどいきなりやるになったりします。
やる気になっている時に「勉強しなさい」といわれるとやる気は失せてしまいます。

どうやら「気」は自分の意思ではなかなかコントロールできないもののようです。

人気(にんき)がある人がいます。
人生の中でやたらと異性にモテる「モテ期」というものがあります。
普段人気(にんき)のない人でも、その人が得意な事をしている時は輝いて見えて人気が出てきたりします。

「気」とは身体の張弛のリズムに左右されているのではないかと思います。
人間には緊張の高まる時期と弛緩する時期が交互にきます。
一週間でもありますし、ひと月、年、身近なところでは一日の中で夜眠くなる時が弛緩傾向、昼の動いていたい時が緊張傾向です。

しかし、緊張傾向で気が高まり、弛緩傾向で気が弱まる、というふうに簡単にいかないのが難しいところではあります。
緊張していても、弛緩していても、身体が一つにまとまっている時は「気」が出ています。

そのまとまる時期とまとまらない時期に波があるのです。
身体には7日周期の変化と10日周期の変化、2種類の変化があるといいます。

その周期が重なった時は身体がまとまりやすく、そうでない時は乱れやすいのではないかと思っています。

緊張傾向の時にまとまりがよくなると、エネルギーの発散がよくなり人気が出る。
弛緩傾向の時にまとまりがよくなると、人にやすらぐ感じをあたえたりして人気が出る。

そういう波のうねりからうみだされるエネルギー、それが「気」なのではないかと今、考えています。
「運」といってもいいかもしれません。

でも、身体がまとまる方法がわかれば一定の「気」は出せるようになります。

どちらにしても、「気」は身体に付随するもの、もっと言えば、自然のなかにあるリズムの中から生まれるものであるのではないかということです。

なので、自分の「気」がわかればもっといろいろなことができるようになるし、楽に生きられるのではないかと思っています。

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日本語には「」を使った言葉がたくさんあります。

(「」という字の中の×は止めるという意味で、「」という字の中の米は広がるという意味だから「」という字のほうが「」のイメージにあっているという意見があります。)

私がざっと思いつくままに書きだしてみてもこれだけあります。


が合う
に入る
がある  人がある 人がある(ひとけ)
気が変わる
気が滅入る
が立つ
が立つ 
気がつく  気のつく
気が通る  気を出す  気が澄んでいる
気が早い  気が遅い
気が集まる
そんな気がする
気が向く
気が済む
気が抜ける
やる気がある
本気 根気 
元気
気が引き締まる
氣枯れ(けがれ)
気が散る
気を回す  気が回る
気が利く
気が良い  気の良い 
気をやる
気のせい
気が上がる
正気  病気
気を許す
気を感じる

日本人は「何となくそう思う」、「そんな気がする」、ということを大事にしていたのだと思います。
それが言葉になり、その言葉を他人が聞いても理解できるということは、みんな何かしら「氣」というものを感じているのだと思います。

理論的で目に見えることばかり追っている人は「氣」という事を軽視しがちです。
しかし物事は理論でわかるものではありません。
全体を気で感じる人の方が案外本質をついているということがあると思います。

「氣」がわかると表面的なことで一喜一憂しなくなります。
精神の浮き沈みが激しくて悩んでいる人は「氣」とは何かということを考えるのもいいのではないかと思います。

一つ言えることは人を動かしているのは、「脳」だけではないということです。

上に上に上がっている「氣」を鎮めるためにも「氣言葉」を味わってみるのも良いかもしれません。
久々に本の紹介です。

整体の勉強をしていた時、「」というものが大事と知って色々な本を読んで研究していました。
その中でも、この「の確立」という本は、今までに図書館で3回も借りてしまったお気に入りの一冊です。

副題の中村天風と植芝盛平という人は、知る人ぞ知る、すごい方です。

中村天風は日本における自己啓発のさきがけの様な人で、「心が身体をうごかす」「心を積極的な方向へ導かなければ身体も積極的に動かない」といったことを言った方です。
植芝盛平は合気道を作った人で、いろいろな神懸かり的な強さの伝説が残っている人です。

そのお二人の弟子であった著者(藤平光一)が実際の体験、師匠との会話、思いで話などを交え、「」について多方面から説明をしています。

私がこの本を気に入っている理由は、著者の体験から出た言葉で書かれており、文章が面白いからです。
そして、「」を理論でなく、体験などで語っているので「」とは何かということが、より伝わってくるからです。

著者の藤平光一先生は「」についての理論も単純明快にまとまっている方で、説得力があります。
また、読み物としても面白く、偉人伝などが好きな方は楽しめると思われます。

また、「氣」の入門書としてもおすすめの一冊です。




愉気をしていると、「手があったかい」とよく言われます。

「何かしているの?」とか「誰でもそんなに温かいの?」などと聞かれます。

受けた人は、「気を注入している」気功のようなものだと感想を持つみたいです。

私は、「そりゃ手を乗っけてりゃ温かいと思いますよ。」とか
「気功は知らないけど、手を当てている部分に気を集中しているんです」
などと答えています。

実際は、手を当てる側がそこに意識を集中させると、受けている側もその場所に意識が集中するためより温かく感じるのだと思います。

愉気とは、受け手の意識の欠けている場所に手を当てるものです。
意識の欠けている場所は気が欠けていて、血行が悪くなっています。
そこに手を当てていると血行が良くなるので、温かくなってくるのだと思われます。

人は意識が集中するとそこに血が集まってくるのかもしれません。
上がり症の人が顔が赤くなって、そのことに気付くとますます赤くなるようなものです。


人は他人の気を必要とします。
生まれた時から、親に気をかけてもらい、自分より大きな大人から気をかけてもらって成長していきます。
他人に気をかけてもらったり、注目を浴びることは気持ちの良いことです。
寂しかったり、気が欠けている時に、人は変な事をしてしまうものです。
気が枯れてしまうのを昔から日本では、「ケガレ」と言いいます。
怪我をするのも気が欠けている場所です。
本人の意識ができていない場所を人間は怪我していまします。
わかりやすい例が足の小指です。
足の小指をタンスの角にぶつけてしまう時は、足の小指に気が通っていない時です。

でも注意してください。
足の小指に気が通っていないといって、足の小指ばかりを意識して足の小指側に重心を乗せてしまうとますますタンスにぶつけてしまいます。
不思議なことに、足の親指側、身体の中心に近いほうに重心がある時の方が、足の小指にも気が通るのです。
これはまた別の機会に書きます。

話がそれましたが、愉気です。
この愉気というのは、本来誰でもができるものです。
愉気のはじまりは、怪我をした場所に無意識に手を当てる、という行為です。
そして、具合が悪そうな人がいたら、さすってやったり、手を当ててやりたいと思う気持ちが原点です。

愉気はこの行為を技術化して、いつでも使えるようにしたものです。

手に気を集める訓練などをしますが、本来もっているものなので、その気持ちに気付けば誰でもできるようになると思います。
また、手は癒しの効果を持っている、と思うことも大事です。
人は気を集中されると気持ちよい、気をかけてもらうことを望んでいる、と思うことも大事です。
簡単に言うと、思いやりです。

思いやりといってもどうすれば良いかわからない、恥ずかしい、思い込みでやってしまう。
そんなこともあるかもしれませんが、手を当てるという行為から、逆にそれを学べると思います。

現代は人同士の身体の接触が少なくなってきていますし、日本ではもともと他人との皮膚の接触が多い方ではありません。
最近は他人との距離の取り方がわからない人も多いようです。距離感がわからないのは、皮膚より外に気の壁があるからでしょう。他人との身体の接触が少ない人がそうなるようです。

家族や親戚など気軽に手を当て合うようになればいいのに、と思います。
それぐらい愉気が広まればと願います。

一度、ご自分の家族にやってみて下さい。
ただ手を当てるだけでも気持ちいいものですよ。
「気」というとどういうものを想像するでしょうか。

私が野口整体を習うまでは「気」というと何かエネルギーのようなものが手から出てくるみたいに思っていました。
私の世代はちょうどドラゴンボールが流行っていた時代で、子供時代にそういうイメージができ上がっていたのだと思います。

しかし野口整体で習った「気」は少し違いました。
100パーセント違うのではありませんが、野口整体でいう「気」は、もっと日常生活に密着したものでした。
「気がある」「気を合わす」「気が上がる」「気になる」という私達が普段使っている「気」という言葉にもっと近いものだと思いました。

私の受けた感じでは、「気」を手から出したりするような何か超能力的な事を言ってるんじゃなくて、もっと「気」ということに敏感になろうと言っているように感じました。

おそらく、文明開化するまでの日本人はそういう「気」の感じをもっと大事にしていたのだと思います。

今でも、日本人は後ろから自転車などが追い越そうとしたら、外国人より気付きやすいそうです。
ですが私の感じでは中年以降のおばさんなどは全然気付いてくれないという印象が強いです。狭い道を横一列になって歩いて平気なおばさん達も良く見かけます。

日本人が謙遜を美徳とするのは相手のことに「気付く」からではないかと最近思います。

相手の気にしていることをさっと察してそのように動くことを美徳としていたのに、そのことを理解できない鈍感な人が、「あの人は謙遜している」と思ったのではないかと勘ぐってしまいます。

「気」を感じるには、「気」を出すと言う能動的な感覚より、受け入れる、共感するという受動的なイメージを持つことが大事のように思われます。
それは、はたから見たら消極的に見えるのかもしれませんが、受け入れるということは積極的な心がないとできないことだと思います。


野口整体では「気」が下に落ち着いて頭の部分はすっきりしている状態を整体であると言っています。

身体が整わないと気は下に落ち着きません。

そして「気」が落ち着いてくると色々なことに気付きやすくなります。
他人の「気」がよく分かるようになります。
それは、まるで波立っていない水面に空が良く映るかのごとくです。

「気」が上がっている人は自分の事しか気付きません。
私の印象では野口整体は、「気を落ち着けてもっと穏やかに生きようよ」と言っているように感じます。

また、普段おとなしい人が一度怒るととても恐いように、「気」の落ち着いている人は「気」の出し方にもメリハリがあります。

「普段は穏やかに生きて、気を出すところでは出す」事ができると整体に近づいたのではないかと思われます。


野口整体の健康への道は「気」に気付くことにあるとも言えます。

身体は物質の固まりではなく、生命の営みによって成り立っていることに「気付く」ことが健康への第一歩だと思います。

プロフィール

tamon

Author:tamon
整体師首藤多聞の個人ブログ。
茨木市しゅとう整体非公式ブログ
一介の整体師として思っていることをつらつらと書いています
興味のあること、
野口整体、背骨、筋肉、心と身体の関係。
人間を理解するのに、身体というアプローチの方法がある事を教えてくれた整体の考え方に感謝、感激している毎日です。

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