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mixiの野口整体コミュから転載
愉氣とは、心を込めて手を当てることです。

↓↓ここから↓↓


放射線被爆の心配がある方は、
盲腸のあるあたり(右下腹部)の上から 愉気(手をあてて気をおくる)を行ってください。
放射能の身体への影響を軽減できます。

被災地付近に野口整体関係者の方がいましたら、方法の周知をお願いします。


★★★ 追 加 情 報 ★★★

30歳以上の方 ・盲腸を切除してしまった方 で放射線被爆の心配のある方は、とくに以下の方法を行ってください。

<整体指導者向け>
胸椎7番左1側を、はじいてゆるめてから、 左から右へ斜め45度上へ向かって愉気。 (その際、左腕少し持ち上げて肩甲骨をゆるめながら行うとよい。)

<一般向け>
・胸椎7番に愉気。 または ・左足の親指の爪の生え際(免疫中枢)に愉気。

↑↑ここまで↑↑


★参考★
mixiアカウントを持っている方は、こちらも参考にしてください。

ももわんこさんの日記

つもさんの日記

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口晴哉先生が、

「~ねばならない」
「~をしなければならない」

で行動すると人は弱くなる、とよく著書に書いていますがなぜでしょう。


ぜそうなるのか話す前にまず「弱くなる」とはどういうことか考えてみましょう。

野口整体では、

・ 病気一つしない健康体とか、
・ 痛みや悲しみなどを何一つ感じない強靭な心

というような人を強いとは考えていません。


では、どんな人が強い人でしょう。

・ 身体に故障があってもそのように生活でき、
・ 風邪を引いたら熱を下げるのでなく、経過させる心の余裕を持ち、
・ 自分の要求に従って行動できる人。

ひとことでいうならば「素直な人」でしょうか。


笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、
いつまでもこだわらないような心の持ち様を知っている人。

そういう人が本当に強い人だと思います。


野口整体でいう強い人を定義するなら、
「積極的に行動できる人」
と言えると思います。

自分の要求を行為で表すことのできる人とも言えるでしょう。


はいっても誰もが自分の感情をそのまま直接表せないとダメだと考えているのではありません。
泣く、笑うという表現方法でなくても人は表す事ができます。

例えば、
音楽という形で表現する
詩という形で表現する
手紙で伝える

自分の表現方法を持っていれば良いと考えています。

もちろん考えなければいけないのは、
他人を傷つけたり、自分を傷つけたりする方法は良くないという事です。

自分の表現方法を持っている人は、自分を表現するという「行動ができる」人です。


こでもう一度考えてみます。

「~ねばならない」
「~をしなければならない」

の人はなぜ弱くなるのでしょう。


そこにその人の「要求」や「感情」がないからです。
人は不思議なもので「要求」や「感情」を感じないと
行動できなくなるのです。


「~しなければならない」と考えている人は、
一見行動しているように見えますが、

自分で考えて、
やりたい事を知り、
そのために勉強をして、
やりたいことをやり、
生き生きと生活する、

というように積極的に行動することができません。


積極的に行動できない人は、自分の深い所で「要求」や「感情」が昇華されないまま渦巻いているのです。
それが、身体の不調として表に出てくるのです。

自分の「要求」や「感情」に敏感になることをしていないと、自分がなにをやりたいのかわからなくなり、「要求」や「感情」の昇華の仕方がわからなくなります。

そうすると、いつまでも不安や不満が消えなかったり、他人を傷つけてみたり、最後には自分を傷つけることにもなってしまうのです。



口先生は「全生」ということを言われています。
元は禅の言葉ですが、全部生きるということです。

命を全部使い切れば、後は安らかに死ねるというのです。

最後に少し重い話しになりましたが、
次回は、「行動と感情と想像」のようなテーマで続きのお話をしていきます。

最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。


野口整体の智恵はとてつもない情報量と難しい技術がいっぱい詰まっているように感じます。

普通に教育を受けた人は、今まで教えられたものとまるで違うし、また一から沢山勉強しなければいけないと思うでしょう。

そして、野口晴哉という人は、とてつもなく頭のいい人のように感じます。
知識に知識を積み重ねて、練って練って作り上げたものだというように初めは感じます。

でも本当は違うと思います。

野口晴哉先生はとても単純な人だったのだと思われます。

単純だからこそあれだけの事が分かり、勘で生命とはなにか、ということを掴まれたのだと思います。

野口先生は「無心ということが一番強い」とおっしゃっていたようです。

初めはよく分からなかったのですが、最近わかってきました。
要は、単純であるということです。
知識など、心を曇らすものが何もないから勘で一瞬にして分かるのだと思われます。

さて、そういう無心の状態に至るのに良い方法が、「集中する」ということです。
集中する」とはウンウン唸って力むことではありません。
別の言い方で言えば、「夢中になる」「無我夢中」「没頭する」と同じようなことです。
そのためには、なにが必要か。
好きなことをすることです。

人は、好きなことをしている時は、集中しています。
そして、腰が入っています。
腰が入ると、身体は一つにまとまります。
まさに「没頭する」という姿勢です。

実は、これが最上の健康法だと思われます。

そこで問題は、「自分は何が好きか?」という事です。
私は、「これが好きだ」、と言っているものは、実は本当に好きではないのかも知れないと思います。
集中して」、「無我夢中になって」、「没頭できるもの」、というのは、やっていると「心地良い」「呼吸が楽にできる」「なんだか楽しい」ものです。

「これを知る者はこれを好む者に如かず、
  これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」

という言葉があります。

集中して、夢中になれるのは、「単純」だからこそできることです。
余分な感情、人の目を気にする、勝ち負けなどの入る隙間がありません。
まさに一つにまとまっています。

ということで、私の今の目標は、単純になることです。
いつでも単純でいられたらと思っています。
そうすると心が開かれるような気がします。

少し中途半端ですが今回はこれで。
野口晴哉先生の著書を読んでいて、「数息観」というのが書いてあったのでやってみましたが、なかなか良いものです。

ただ、座って、目を瞑って自分の呼吸を数えるというものです。
本来はインド等で行われていたもので仏教の修業でもあるようです。そこでは、色々な条件があるようです。
でも私は、ただ目を閉じて自分の呼吸をを数えるだけでいいのではないかと思います。
(野口先生もそれ以上に何も書いていません。)

野口整体の訓練にはこのように単純なものが多いです。
一番始めに習うのは合掌行気と言って、両手を合わせて、手のひらに気を集中する訓練です。
ただ、それだけの訓練です。

何故、そのような分けの分からない訓練をするのか今まで分からなかったのですが、野口先生の著作にヒントが少し書いてありました。
息を数えるという単純なことをずっと続けるのは難しい。
それを、100,150,200とだんだん増やしていけば、集中力が付くというものです。
「なるほど!」と思いました。

私が合掌行気を始めた頃は、なかなか集中できなくて頭で「う~ん」と言いながら手のひらに集中していたものです。
でもそれでは疲れてしまいます。
本当に集中していれば、疲れないものです。
やがて、手のひらでもう一つの手のひらを感じるようにして、その感覚を味わうようにすると集中が続くようになりました。

野口整体で一番大事なことは、集中するということです。
その集中力を養うための訓練だったのですね。

面白い話では、「畳の目を数える」というものもあります。
なんでそういうことをさせたのか分からなかったのですが、それも集中力を養う訓練だったのだと思います。

さて、数息観をやってみて、もう一つ面白いことに気付きました。
それは、息を数えることによって、息をするということに客観的になるということです。
「あっ、今深く呼吸した」
「なんか短いな」
「始めは間隔が短かったのに、だんだん長くなってきた。」
と客観的になるにつれて、息が深く、長くなります。
集中が増すと、自分が呼吸だけになるように感じます。その自分をどこか上から見ている感覚です。

息というのは、自分の感情などに連動して短くなったり、浅くなったりします。
その息をいったん突き放して見ることで身体の自然に沿った呼吸になるのだと思います。

私が昔、いろいろ悩むことがあって、禅の本などを読んでいた時にも、「いったん自分の心を離れなければならない」と言うようなことが書かれてありました。
自分の心が自分だと思って、その心に振り回されていたのです。

その言葉を思いだしました。

「数息観」、集中力をつけたい人はやってみると良いかも知れません。
「気」というとどういうものを想像するでしょうか。

私が野口整体を習うまでは「気」というと何かエネルギーのようなものが手から出てくるみたいに思っていました。
私の世代はちょうどドラゴンボールが流行っていた時代で、子供時代にそういうイメージができ上がっていたのだと思います。

しかし野口整体で習った「気」は少し違いました。
100パーセント違うのではありませんが、野口整体でいう「気」は、もっと日常生活に密着したものでした。
「気がある」「気を合わす」「気が上がる」「気になる」という私達が普段使っている「気」という言葉にもっと近いものだと思いました。

私の受けた感じでは、「気」を手から出したりするような何か超能力的な事を言ってるんじゃなくて、もっと「気」ということに敏感になろうと言っているように感じました。

おそらく、文明開化するまでの日本人はそういう「気」の感じをもっと大事にしていたのだと思います。

今でも、日本人は後ろから自転車などが追い越そうとしたら、外国人より気付きやすいそうです。
ですが私の感じでは中年以降のおばさんなどは全然気付いてくれないという印象が強いです。狭い道を横一列になって歩いて平気なおばさん達も良く見かけます。

日本人が謙遜を美徳とするのは相手のことに「気付く」からではないかと最近思います。

相手の気にしていることをさっと察してそのように動くことを美徳としていたのに、そのことを理解できない鈍感な人が、「あの人は謙遜している」と思ったのではないかと勘ぐってしまいます。

「気」を感じるには、「気」を出すと言う能動的な感覚より、受け入れる、共感するという受動的なイメージを持つことが大事のように思われます。
それは、はたから見たら消極的に見えるのかもしれませんが、受け入れるということは積極的な心がないとできないことだと思います。


野口整体では「気」が下に落ち着いて頭の部分はすっきりしている状態を整体であると言っています。

身体が整わないと気は下に落ち着きません。

そして「気」が落ち着いてくると色々なことに気付きやすくなります。
他人の「気」がよく分かるようになります。
それは、まるで波立っていない水面に空が良く映るかのごとくです。

「気」が上がっている人は自分の事しか気付きません。
私の印象では野口整体は、「気を落ち着けてもっと穏やかに生きようよ」と言っているように感じます。

また、普段おとなしい人が一度怒るととても恐いように、「気」の落ち着いている人は「気」の出し方にもメリハリがあります。

「普段は穏やかに生きて、気を出すところでは出す」事ができると整体に近づいたのではないかと思われます。


野口整体の健康への道は「気」に気付くことにあるとも言えます。

身体は物質の固まりではなく、生命の営みによって成り立っていることに「気付く」ことが健康への第一歩だと思います。

プロフィール

tamon

Author:tamon
整体師首藤多聞の個人ブログ。
茨木市しゅとう整体非公式ブログ
一介の整体師として思っていることをつらつらと書いています
興味のあること、
野口整体、背骨、筋肉、心と身体の関係。
人間を理解するのに、身体というアプローチの方法がある事を教えてくれた整体の考え方に感謝、感激している毎日です。

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