愉気をしていると、「手があったかい」とよく言われます。
「何かしているの?」とか「誰でもそんなに温かいの?」などと聞かれます。
受けた人は、「気を注入している」気功のようなものだと感想を持つみたいです。
私は、「そりゃ手を乗っけてりゃ温かいと思いますよ。」とか
「気功は知らないけど、手を当てている部分に気を集中しているんです」
などと答えています。
実際は、手を当てる側がそこに意識を集中させると、受けている側もその場所に意識が集中するためより温かく感じるのだと思います。
愉気とは、受け手の意識の欠けている場所に手を当てるものです。
意識の欠けている場所は気が欠けていて、血行が悪くなっています。
そこに手を当てていると血行が良くなるので、温かくなってくるのだと思われます。
人は意識が集中するとそこに血が集まってくるのかもしれません。
上がり症の人が顔が赤くなって、そのことに気付くとますます赤くなるようなものです。
人は他人の気を必要とします。
生まれた時から、親に気をかけてもらい、自分より大きな大人から気をかけてもらって成長していきます。
他人に気をかけてもらったり、注目を浴びることは気持ちの良いことです。
寂しかったり、気が欠けている時に、人は変な事をしてしまうものです。
気が枯れてしまうのを昔から日本では、「ケガレ」と言いいます。
怪我をするのも気が欠けている場所です。
本人の意識ができていない場所を人間は怪我していまします。
わかりやすい例が足の小指です。
足の小指をタンスの角にぶつけてしまう時は、足の小指に気が通っていない時です。
でも注意してください。
足の小指に気が通っていないといって、足の小指ばかりを意識して足の小指側に重心を乗せてしまうとますますタンスにぶつけてしまいます。
不思議なことに、足の親指側、身体の中心に近いほうに重心がある時の方が、足の小指にも気が通るのです。
これはまた別の機会に書きます。
話がそれましたが、愉気です。
この愉気というのは、本来誰でもができるものです。
愉気のはじまりは、怪我をした場所に無意識に手を当てる、という行為です。
そして、具合が悪そうな人がいたら、さすってやったり、手を当ててやりたいと思う気持ちが原点です。
愉気はこの行為を技術化して、いつでも使えるようにしたものです。
手に気を集める訓練などをしますが、本来もっているものなので、その気持ちに気付けば誰でもできるようになると思います。
また、手は癒しの効果を持っている、と思うことも大事です。
人は気を集中されると気持ちよい、気をかけてもらうことを望んでいる、と思うことも大事です。
簡単に言うと、思いやりです。
思いやりといってもどうすれば良いかわからない、恥ずかしい、思い込みでやってしまう。
そんなこともあるかもしれませんが、手を当てるという行為から、逆にそれを学べると思います。
現代は人同士の身体の接触が少なくなってきていますし、日本ではもともと他人との皮膚の接触が多い方ではありません。
最近は他人との距離の取り方がわからない人も多いようです。距離感がわからないのは、皮膚より外に気の壁があるからでしょう。他人との身体の接触が少ない人がそうなるようです。
家族や親戚など気軽に手を当て合うようになればいいのに、と思います。
それぐらい愉気が広まればと願います。
一度、ご自分の家族にやってみて下さい。
ただ手を当てるだけでも気持ちいいものですよ。
「何かしているの?」とか「誰でもそんなに温かいの?」などと聞かれます。
受けた人は、「気を注入している」気功のようなものだと感想を持つみたいです。
私は、「そりゃ手を乗っけてりゃ温かいと思いますよ。」とか
「気功は知らないけど、手を当てている部分に気を集中しているんです」
などと答えています。
実際は、手を当てる側がそこに意識を集中させると、受けている側もその場所に意識が集中するためより温かく感じるのだと思います。
愉気とは、受け手の意識の欠けている場所に手を当てるものです。
意識の欠けている場所は気が欠けていて、血行が悪くなっています。
そこに手を当てていると血行が良くなるので、温かくなってくるのだと思われます。
人は意識が集中するとそこに血が集まってくるのかもしれません。
上がり症の人が顔が赤くなって、そのことに気付くとますます赤くなるようなものです。
人は他人の気を必要とします。
生まれた時から、親に気をかけてもらい、自分より大きな大人から気をかけてもらって成長していきます。
他人に気をかけてもらったり、注目を浴びることは気持ちの良いことです。
寂しかったり、気が欠けている時に、人は変な事をしてしまうものです。
気が枯れてしまうのを昔から日本では、「ケガレ」と言いいます。
怪我をするのも気が欠けている場所です。
本人の意識ができていない場所を人間は怪我していまします。
わかりやすい例が足の小指です。
足の小指をタンスの角にぶつけてしまう時は、足の小指に気が通っていない時です。
でも注意してください。
足の小指に気が通っていないといって、足の小指ばかりを意識して足の小指側に重心を乗せてしまうとますますタンスにぶつけてしまいます。
不思議なことに、足の親指側、身体の中心に近いほうに重心がある時の方が、足の小指にも気が通るのです。
これはまた別の機会に書きます。
話がそれましたが、愉気です。
この愉気というのは、本来誰でもができるものです。
愉気のはじまりは、怪我をした場所に無意識に手を当てる、という行為です。
そして、具合が悪そうな人がいたら、さすってやったり、手を当ててやりたいと思う気持ちが原点です。
愉気はこの行為を技術化して、いつでも使えるようにしたものです。
手に気を集める訓練などをしますが、本来もっているものなので、その気持ちに気付けば誰でもできるようになると思います。
また、手は癒しの効果を持っている、と思うことも大事です。
人は気を集中されると気持ちよい、気をかけてもらうことを望んでいる、と思うことも大事です。
簡単に言うと、思いやりです。
思いやりといってもどうすれば良いかわからない、恥ずかしい、思い込みでやってしまう。
そんなこともあるかもしれませんが、手を当てるという行為から、逆にそれを学べると思います。
現代は人同士の身体の接触が少なくなってきていますし、日本ではもともと他人との皮膚の接触が多い方ではありません。
最近は他人との距離の取り方がわからない人も多いようです。距離感がわからないのは、皮膚より外に気の壁があるからでしょう。他人との身体の接触が少ない人がそうなるようです。
家族や親戚など気軽に手を当て合うようになればいいのに、と思います。
それぐらい愉気が広まればと願います。
一度、ご自分の家族にやってみて下さい。
ただ手を当てるだけでも気持ちいいものですよ。
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本当に寒いですね。
あまりに寒いので、熱いお茶などを飲んで暖まろうとしてしまいます。
私も熱いお茶が好きなので、ついつい寒の水の事を忘れていました。
外から帰ってきた時などはそれで良いのですが、家の中で暖房をつけていると身体が乾いてきます。
乾いてくると、より寒さを感じるようになります。
そういう時に冷たい水を飲んでみましょう。
予想外においしかったら身体が欲しているサインです。
できれば、一気に飲まずに、ちびちびと飲んでみて下さい。
身体が潤ってきたら、寒さも和らいでくるから不思議です。
12月から3月ごろまでは冷たい水を飲むことが有効な時期です。
ただし、おいしく感じられなくなったらやめて下さい。
詳しくは、乾く身体2を読んでみて下さい。
あまりに寒いので、熱いお茶などを飲んで暖まろうとしてしまいます。
私も熱いお茶が好きなので、ついつい寒の水の事を忘れていました。
外から帰ってきた時などはそれで良いのですが、家の中で暖房をつけていると身体が乾いてきます。
乾いてくると、より寒さを感じるようになります。
そういう時に冷たい水を飲んでみましょう。
予想外においしかったら身体が欲しているサインです。
できれば、一気に飲まずに、ちびちびと飲んでみて下さい。
身体が潤ってきたら、寒さも和らいでくるから不思議です。
12月から3月ごろまでは冷たい水を飲むことが有効な時期です。
ただし、おいしく感じられなくなったらやめて下さい。
詳しくは、乾く身体2を読んでみて下さい。
緩むことは難しい。
筋肉が緩んで、気が下に沈み、心もリラックスしている時が一番その人の能力を発揮できると頭で分かっていても、実際に緩むことは何より難しい事だ。
緩むことは身体で分からないとできない。
心で分からないとできない。
頭で、「緩むんだ」と言っている間は、緩み方を知らないと言える。
何故なら、人の心と身体の構造は人それぞれ違うのだから、緩み方は一つではないからだ。
緩むという到達点は一つだけど、そこに至る方法は人それぞれの身体の特徴や、心の癖を知らないと、「緩む、緩む」と意識するあまり、固くなるということもありうる。
緩むには心が本当の意味でリラックスしないと緩まない。
なぜリラックスできないか。
自信がないから、焦りがあるから、弱いから、見栄を張ってしまうから・・・。
色々ある。
だから、緩むと自分は生まれ変わると思っている人は本当には緩まない。
緩むと変わるんじゃなくて、今の自分を受け入れた時に人は、本当に緩む。
でも、色々工夫して、鍛えて、七転八倒してやっと人は自分を受け入れるのだとも思う。
じゃあ、緩むと良いなどと言わなければいいと思うかも知れない。
緩むというのは、方向性のことだ。
力んでいたら、ふと心を静めて「いかん、いかん」と思うために、緩むという事が良いと言うのだ。
心が緩むために、身体を使い、身体が緩むために、心を使う。
心と身体の関係を知ることも、緩むためには必要だ。
筋肉が緩んで、気が下に沈み、心もリラックスしている時が一番その人の能力を発揮できると頭で分かっていても、実際に緩むことは何より難しい事だ。
緩むことは身体で分からないとできない。
心で分からないとできない。
頭で、「緩むんだ」と言っている間は、緩み方を知らないと言える。
何故なら、人の心と身体の構造は人それぞれ違うのだから、緩み方は一つではないからだ。
緩むという到達点は一つだけど、そこに至る方法は人それぞれの身体の特徴や、心の癖を知らないと、「緩む、緩む」と意識するあまり、固くなるということもありうる。
緩むには心が本当の意味でリラックスしないと緩まない。
なぜリラックスできないか。
自信がないから、焦りがあるから、弱いから、見栄を張ってしまうから・・・。
色々ある。
だから、緩むと自分は生まれ変わると思っている人は本当には緩まない。
緩むと変わるんじゃなくて、今の自分を受け入れた時に人は、本当に緩む。
でも、色々工夫して、鍛えて、七転八倒してやっと人は自分を受け入れるのだとも思う。
じゃあ、緩むと良いなどと言わなければいいと思うかも知れない。
緩むというのは、方向性のことだ。
力んでいたら、ふと心を静めて「いかん、いかん」と思うために、緩むという事が良いと言うのだ。
心が緩むために、身体を使い、身体が緩むために、心を使う。
心と身体の関係を知ることも、緩むためには必要だ。